偏愛・ファイナルMVP
NBAにおいて最高の個人賞は言うまでもなくシーズンMVPである。
歴代TOP100などの企画やGOAT論争でも、いくつシーズンMVPを獲ったかが大事な指標の一つとして扱われる。
偉大な選手の証であることに間違いはないのだが、私は若い頃からシーズンMVPよりファイナルMVPの方が好きだった。
中でもお気に入りは、シーズンMVPとは無縁でありながらファイナルMVPを獲った選手たちだ。
典型例はチャウンシー・ビラップスやポール・ピアースで、彼らにはマイケル・ジョーダンやレブロン・ジェームズのような才能は無かったが、一生に一度のチャンスをものにしたことは何物にも代えがたい勲章のように思えた。
実のところ、歳を取れば取るほどシーズンMVPの重みも理解できるようになってきた。特に複数回受賞した選手たちは洩れなくリスペクトに値すると思っている。
先日弊社から刊行した『SHOT READY 最高の自分を引き出す準備の哲学』を読んでも、才能のある人間が若い頃から人一倍の努力をし続けた結果が今日のステフィン・カリーであることがわかる。
あるいは年齢は関係なく、メンフィス・グリズリーズファンであるせいで考えが変わってきたのかもしれない。ジャ・モラントはリーグの顔になるはずだった。それだけの素質はあった。しかし、絶頂からたった4年で今やスター街道から脱落寸前である。
モラントの最初の躓きはSNSで銃をチラつかせたことだった。しかし、今振り返れば銃社会のアメリカにおけるモラントの価値観など大した瑕疵ではなかった。あの日モラントはアウェイに取り巻きを連れて行き、朝までストリップバーで飲んでいた。その事実こそが問題の根本だったのだ。
カリーが朝まで遠征先で飲んだという話はついぞ聞かない。レブロン・ジェームズだってそうだ。
見方によってはモラントの方が人間味があると言える。ストリップクラブでは永久欠番と言われるジェームズ・ハーデンも、きっと評伝を書くならカリーやレブロンよりも面白いだろう。
しかし、いくらポテンシャルがあろうと、そんな調子では頂点に立つことはできない。よしんばハーデンのように片足をかけることはあっても、両足で踏みしめることはない。最高峰には同じく才能がある上に努力を怠らない者が君臨しているのだ。
こうした価値観の変化を経て改めてファイナルMVPについて考えてみたが、それでもやはり私にはこの賞がとても魅力的に感じられる。
